歴戦のパタヤ巡礼者になると、例え愛してやまないタイ王国に現在進行形で滞在していても、当初の感動や新鮮さは薄れていき、国内各所に無数に在る観光資源からは自然と足が遠のいていく。

パタヤ修行僧にもなれば、皆一様に各個人の修行プログラムが既に出来上がるだろう。

そしてそれに沿い、あるいはその範囲内で日々の滞在生活を営んでいくようになる。
遅かれ早かれ、ずっと観光している気には成らなくなる。
非日常が日常になり、時間的空間的な(あるいは経済的な)テリトリーや範囲を確立し、その中で活動していくことになる。

新鮮さや驚きがなくなる代わりに、安定や快適性、また利便性や周期性なども生まれる。
物事がうまく進み始め、便利になり、更に調子が良くなる。
ナントカなっている感が生まれてくるのもこの時だろう。がしかし、同時に無視できないマイナス面も。
当初、惹かれたあの新鮮な刺激や驚きが無くなり、慣れて飽きを感じ始めるのだ。
人によっては、このフェーズが始まると、後はひたすら急降下に陥る。
新たな概念に達して開眼しない限り結局、最後は国を出る(場所を変える、あるいはやっていた事柄を辞める)ことになる。

しかし、話はそれで終わらないのが人間世界だ。
このフェーズの対応を適切に行わないと、、安寧は永遠に訪れない。
全ての刺激は薄れるのが人間の意識の性なのだ。
最初の刺激が強ければ強いほど、それを再度繰り返そうと強く欲し始めて渇望が生まれる。
渇望が生まれると、、なんとかそれを充足しようと欲望が生まれ、、、それを満たそうとして。。
一つを満たし、また一つ、、その次が生まれ。。
後は言うまでもない延々と続く堂々巡り。。
永遠に満たされることは無い。

よく色々と場所ばかり変えているわりには、いつも不満を感じていて、その場所をコキ下ろしてばかりいる人がいるな。
この類の人達は、この種の罠にドップリと陥っているのだ。
場所や品を変えても満足することもなく、感じるのは不満と苦悩だけだ。
苦労と経費だけが積み重なっていく。

渇望から生まれる欲望を諦め、これを断ち切って辞め、安寧安息を得るように努力しよう。。。というの言うのがご存知、仏教の教えなのは周知の事実。
先代のタイ国王ラマ9世のおっしゃった足るを知る教えも、正にこの辺りことを意味するのだろうと思う。

大分、前置きが長くなってしまったが長い間、私が幾度となく宿泊滞在してきたパタヤクラン(セントラルパタヤエリアの現地の呼び名)に普段、全く一眼だにしてこなかった寺がある。
上に書いた様な理由で毎回素通り、付近のホテルの上層階に泊まった時など窓外へ見下ろすことが出来て、境内の非凡な様子が見えていたにも関わらず、足を向けてみようとしてこなかったのだ。

今回、知人の想いつきで(ピュアな慧眼だ!恐れ入る)提案され、行ってみて驚いたので紹介する。
聞くと、、ネット上で(あくまでも日本語のパタヤ・ネット上だが)探してもあんまり何も出てこない寺があると気付いたらしいのだ。
何処に?って聞くと、パタヤクランっていうから私にはすぐピンと来た。
ああ、あそこね?なんだか大きそうな寺であるけど有名でもないし、いつも静かだし。。ガイドブックなどにも出ないし。。。
そう、ガイドブックに出ていない。
我ながら何たる馬鹿げた理由だこと!
出来るだけ多様な世界を自分の目で見ようとしているのに。。
これは大きな反省点だ。

境内は見ての通り金泊で神々しく輝いている。
有名でないのでひっそりしている。
境内にはお寺に住む地域犬がゆっくりと昼寝。更に、、完成していない、、、横になっているお釈迦様も。実際、僧侶の姿も見かける。。。当たり前だが。。。
一介の外国人がカメラを振り回していても、全く意に介さない。。

観光地化されていない、まっさらなタイのお寺そのものだ。
パタヤの超有名有力寺院ワット・チャイモンコンもいいが、、慣れるとこのような地の寺院も非常に趣がある。

境内から見えるセントラル・パタヤのランドマーク Centric Sea Pattaya

位置はセントラルロード、セカンドロード、サードロードの何処からでも簡単にアクセスできる。

距離もそうなく何処からでも徒歩圏内。
近くには来たついでに静かな境内に立ち寄り、己についてもっと考えてみるのも良いかもしれない。
きっと、もっとマシな考えが浮かぶかもしれない。