Asiaって聞くと何が思い浮かぶか? 戦乱と貧困と絶望?それとも混沌、灼熱、環境汚染か?または活気、経済発展、明日へ希望か?この辺りは考える人自身の世代によって変るのだろう。アジアといっても広大だ、広義で言えば世界人口の半分近くがここに集中ししている。各地域で特徴、背景が異なり一様ではない。一国でも都市間によって途轍もない差異が厳然と存在して多様性には目が回るばかりだ。恐らく、上記のイメージはどれも当てはまるのだろう。世界経済の成長エンジン、膨張する人口、旺盛な消費欲、きらびやかな新興大都市、所によってはまだ残る原始からの自然環境。なんでもある。西洋文明が500年近くの時間をかけてゆっくりと近代から現代へと発展してきたのと対照に、後発のアジアは50年余りの時間で急速にキャッチアップしてきている。後発の優位性?あるにはあるのだろうが、それより西洋が経てきた時間的な猶予がアジアには存在しない。とにかく、早い、これに尽きる。数か月程、目を離した時の変わりようなど我が国には想像もできない。まるで成長とともに脱皮を繰り返す爬虫類のようだ。素早く、貪欲で時として危険、うっかりしてると噛みつかれ呑み込まれてしまう。それでいて妖しい魅力に満ちている。


アジアに惹かれてしまった。
今や身も心もがんじ絡めだ。
当初は西洋に惹かれ10年以上の歳月を過ごしてきたのだが、いつだったか西洋人の西洋文化のフィルターを通してみたアジアを皮切りに始まり現在に至るが、最初は違和感の連続で拒否、嫌悪したのだがいつのまにかどっぷりと絡め捕られてしまった。その昔、ある年配の西洋人がポロっと一言私に言った。我々は歴史を体現していると。その時は全く意味が分からなかったがそれから15年近くの時が過ぎて今は彼が私に向かっていったことがハッキリとわかる。人類文明発祥から近代にかけて発展してきた今日の人間社会。古代では異なるが現在の先行地域は何といっても西洋文明。今日我々アジア人も西洋文化発祥の物の価値観、社会制度、科学技術を通して生活していることは否定しようがなく、外見、服装、頭の中まで西洋的になりつつある。文化の破壊、侵略だと騒ぎ立てる向きもあるにはあるが、最終的には我々アジア人自身がそれを選択しているのである。他のやり方をとうとう生み出せずに。そう降伏だ。同時にそれが幸福なのかもしれない。先行文明のように試行錯誤せずに済むのだから、示された道をなぞるだけでよいのだ。

海外生活に海外移住、セカンドライフにデュアルライフ、またはロングステイにノーマドライフか。数々の呼び名があるが基本はすべて同じ。最近我が国でもよく言われ始めメディア、啓発媒体などに頻繁に取り上げられ新しい概念として定着しつつある。現代の人、モノ、情報、知識、経済の流動性は以前の比ではなくますます加速してもはや地理的な空間、距離はあまり意味を持たなくなって久しい。朝、日本の自宅で端末を通して出発2時間前までに航空券を購入すると午後のブランチはアジアの諸都市でということになる。しかも誰にでも、そう、あなたがたにも。

私が海外生活を始めた頃、まだ言語的バリアがあり分厚くかさ張る辞書を持参し、本国との連絡は絵葉書だった。今考えると笑話だが、言っておくがそんなに昔の話ではない。日本文化、日本語、日本国内の様々な情報、知識は国境を超えた時点で効用性をほとんど失い、現地空港到着ターミナルのドアを抜けた瞬間に感じる無力、無防備感によく途方に暮れたものだった。同時に感じるあの何とも言えない喧噪、期待、開放感に興奮も覚えたが。

国境を越えて海外に出る? で、どうする? 住む場所は?食事は?遊ぶ方法は?病院は?困ったときに頼る人間は? 流動性の高い現代社会、外へ出ることは誰にでもできるが出た瞬間から雪崩のように襲ってくる数々の課題に眩暈に襲われることも。やはり辞めときゃ良かったか?帰るか?誰でも一度や二度考えたことがあるはずだ。自国に居ればとうの昔に解決した問題を再び抱え込むことになり、本来の快適な時間を過ごす目論見と裏腹に初めは余計に忙しくなり悩ましく不便だ。では、既に楽しそうにしている他の人達はどうしているのだろうか?問題など抱えずに安心しているように見受けられるが。

今も昔も世界には多種多様な文化、言語、歴史があるがそれを超えてどうにか使える共通フォーマットととでも呼べば良いのか、言語、行動様式、概念があり、彼らはこれを使い動いているのだ。そう、少なくとも東南アジアでは。先行した西洋諸国がそうさせたのである。ドミナント言語である英語を中心に社会制度を構築したのだ。道理で何の問題も不便さも存在せず、楽しそうにしている訳だ。おい、おいここはアジアだぞ、アジア人の一員である筈の我々日本人が一様に感じるあのアウエー感、もう最初から不利な立場だ。反対に西洋人にはさぞかし便利で快適、少なくとも馴染み易いのだろう。まただよ、彼らが優位だ。昔も今も、ずっと。

あの時聞いた我々は歴史を体現しているという何気ない一言、あれからだいぶ時間が過ぎたが今は意味が十分すぎるほど解っているつもりだ。その昔、歴史の授業で習った西洋列強による植民地主義、300年近く時は流れて今ではほとんどの国は独立し、今日宗主国の便益は表向きに見えない。しかし、実際は彼らは依然として優位な立場にいる。主に経済力、通貨、産業技術、文化的、言語的支配性、先進性等を通して依然としてはるかに有利なのは変わらない。西洋人達、ガイジン、ファラン、グリンゴ、ブレ、各地に蔑称を含め彼らを指す数々の呼び名が存在するが、そこからアジア人が想起するのは何だろうか?おそらく、憧憬、好意、羨望、嫉妬、諦め、他者排他性、怒りなのではないだろうか? 大多数の地元アジア人自身の手の届かない、トロピカルライフ、セカンドライフ、ビーチライフ、コロニアル、バケーション、ハイエンド、スタイル、ラクシュアル、別荘、ラウンジ、メイドに現地妻、彼らは昔からやっていて別に今に始まったことではなくこれは今も続いている。ただ呼び名が違うだけ。

昔からのこの構図は今も本質的に変わってはいない。

私はこんな想いを抱きながらもう何年もアジアで活動しているが、活動域は厳密な意味でのアジアではない、地理的枠組みではアジアだが、その中の外国人社会、外国人経済圏だ。よって食べるものも日常的に見るもの、行うことも現地の人達が恒常的に行うものではなく彼らからすれば異質なものだ。そこがアジアの難しいところで、時として現地の人々がこちらの要求を満たすどころか理解もできない所以なのだろう。ではどうするか? 工夫、協力、シェア、活用するしかないだろう、我々自身で。もう一つの民族的大集団の華人達はとうの昔にこうしてきていつの時代も逞しく世界中に散っていった。彼ら自身の言語を使いながら。

今思い起こせば色々あった数々の悔恨、後悔、失策、不手際、悪い判断に大失敗。いまだに細々毎日あるが、幸い致命的な事にはいまだ至っていない。中にはそうでない他人の痛々しく気の毒なケースも何度も目にしてきたな。その都度、肝に銘じ同じ失敗を犯さないように自分なりに努めて今に至り、たどり着いた結論がこうだ。妥当な出来るだけ正しいと想われる認識、適切な準備作業、適度な計画、次へのフォローアップだ。こんなことは既に自国で長年にわたり厭というほど刷り込まれてきた。こんな面倒な事を避けるための国境越えなのにと言うむきもあろう。信じなくてもよい、あくまでも個人の勝手だ。でもこんな混沌として不確かで予想つかず、不完全で信用できないところで上手くいくと思うかな?そう思うならやってみてほしい。でも、この適当で掴みどころが無く、どうしようもなく胡散臭い、漠然として不透明で時として汚く危ないところが魅力なんだがね、アジアは。皆さんはどう思う? 私はもう人生の返し地点を過ぎて暫く経つ。そして想いはこうだ。もういいやアジアで、俺は。

当ブログでは このような想いで現在もアジアに暮らす私が触れてきた情報、個人的な経験、概念などを自由に不定期で綴ってみようと思っている。長年、人に聞かれその都度、説明してきたことなので他の人達の役にも立てば喜ばしいかぎりだ。


アジア2万里 著者