画像クラウドを整理していると、普段は想いつかない事を想うことがある。実生活では、眼前を途切れなく流れていく視覚情報だが、静止画でじっくりと考えながら、望めば繰り返し同じ物を見て考えることが出来るからだと思う。しばし画像を止めて自由に湧き上がる様々な想念に身を任せてみると、、意外なことが見えてきたりもする。先日、久しぶりに体験したバリ島の年に一度の一大イベントのニュピから、早くも3週間が過ぎ、写真を再度、眺めていて想った。日頃から儀礼祭礼に勤しむバリの人々だが、彼らは一様に優しく陽気、親切で笑顔を絶やさず信義を重んじる伝統を頑なに守る純朴な人々の集まりだ。日頃、外国人である我々に接するときは到底、素である筈はなく、多かれ少なかれ修正を強いられていて、彼ら本来の姿ではないと考えるのが自然だ。

(大体、言語からして違う、寛容な彼らが忍耐強く、実際のところかなり擦り合わせてくれているのだ。)(上の写真がよく物語るが、イスラム教徒にとってバリヒンヅーの儀礼祭礼イベントは理解の範囲を何倍も超えているらしいのだが、否定も拒否もせずにじっと傍観する立場をとる。インドネシア政府が言う、多様性の中の統一と言う概念だ。両方からの緩やかな擦り合わせと言える)

外島からの住民がかなり混成しているバリ島だが、バリ島内でのヒンヅー教の影響は絶大だ。ちょうど、仏教を抜きにタイ王国が語れないのと同様だ。

上はパタヤではお馴染みのプラタムナックヒルの上にある煌びやかな大仏様。彼らの宗教への信仰心はバリ人のそれ同様に篤い。

先日のニュピ前後に行われる一連のイベントで、彼らの生活の一部になっているバリヒンヅー関係の催しを、自由にカメラに収めてみたので、軽く出してみる。イキイキとした彼らだけの日常を知る一助になるのではないかと考える。外国人も多数写っているが、この日は完全な傍観者だ。この催しは純粋に彼らだけの物だ。寛容な彼らは外国人の立ち入りすら拒まないだけである。

元々、動きの多い被写体なので美しい画像とはならないが,それでも彼らの日常を写してはいる。(洋の東西を問わず人生の晴れの舞台の結婚式。人懐っこいバリ人達は、例え通りすがりでも、快く知人を招き入れて想いを分かち合う。服装恰好などは重要ではなく人との繋がりを非常に重んじる)

仮にあなたがバリ島が好きで、一通りの観光ツアーを既に経験し、次の対象を探しているのなら、次回はこのようなものを追ってみても良いのではなかろうか? 日常的に見ることのできる祭り前後の彼らの表情だ。

バリの代表的な女性舞踊のレゴンダンス、動きと姿勢の美しさに見入ってしまう。

非常に可愛らしいおこちゃまバリダンサー、幼少だが真剣だ。そして動きは目玉まで完璧に同期している。日頃から叩き込まれているのだろう、練習量はいか程なのだろうか。街じゅうに無数に存在するバンジャと言われる民間統治組織、日本で言う自治会みたいなものか。そのバンジャの公民館的建物での日常のバリ舞踊の練習風景。

生活自体が儀礼祭礼の一部の彼ら、季節の節目に必ず執り行われるセレモニー。部外者の我々には理解は難しいが、大祭ガルンガン、クニンガンと並んで一年の一大イベントのヒンヅー新年のニュピに望む出陣式。清々しさと微かな誇りがにじむ表情が印象的。 オゴオゴ会場に到達するころには雰囲気は最高潮。どんなに距離があっても彼らは地元から誇り高くパレードしてゆく。 日頃、呑気で楽天的な緩い彼らだが、この時は一致団結して、そつなく物事を執り行う。彼らには失礼極まりないが、なんだ、やればできるじゃないかと、感じる外国人は少なくない。街じゅうに整然となされる飾りつけも然り、自然素材だが精緻な造りで綺麗だ。
ニュピの画像を眺めていると、なんだか一年に一度の盛大なニュピの催しが彼らの世界観を表しているような気がしてきた。個人では大人しく緩い彼らが、共同体として動くと最大限に機能する。しかも、一時だけ熱烈に激しく。それが終われば嘘のように静かで穏やかな表情に戻る。屈託のない笑みを絶えず浮かべながら、何処までも寛容で優しく。その差異には時に戸惑いを覚えることもたまにはあるが、彼らは愛すべき存在なのは変らない。

興味が魅かれるなら是非、訪れてみて欲しい。彼らはいつでも快く迎えてくれる。

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